私たちは、色々なものを「分類」で見てしまいがちです。
そして自分自身も、「分類」の中に当てはめて考えてしまいがちです。
例えば一番わかりやすいのは、血液型ですね。
血液型は、「A」か「B」か「0」か「AB」の、どれか一つにしか当てはまりません。
よく血液型占いで、「A型はこんな性格」などと言われてしまうと、つい「自分もそんな性格なのかな?」と思ってしまいます。
似たように、誕生日による星座占いもあります。「○○座の生まれの人の運勢は~」と言われると、そう信じてしまいます。
占いを信じる/信じないはともかく、自分をある類型に当てはめて、まるである一定の因果関係があるかのように感じてしまうことは、よくあります。
性格などは、その代表的な例ですね。
「私は内向的な性格だから、他人と話すことは苦手なの」とか。
「私は人見知りする性格だから、初めての人は苦手!」とか、逆に「私は活動的な性格だから、じっとしていることなど出来ないの」と思ったり言ったりしますね。
しかし、内向的な性格だからと言って、いつも誰とも話をしないのでしょうか?
確かに、人とコミュニケーションをとることが好きな人ならば、言われなくても人と話をするでしょう。
逆に人とコミュニケーションをとることが苦手な人ならば、人と話すことは面倒に感じるかもしれません。
でもこれは、単に「その様な傾向がある」というだけのことであって、人とコミュニケーションをとることが苦手な人が、まったく「話が出来ない」というわけではありません。
逆の場合も、同様です。
つまり、その様な傾向が「強い」か「弱い」か、ということです。
「内向的」とは、「他人よりも、自分や自分の内面に興味を持つ傾向がある人」という意味です。
他人に、まったく興味を持たないわけではありません。「外向的」な人についても傾向が逆なだけで、同じようなことが言えます。
つまり「程度の問題」です。
以前このブログで「対立軸を作って、その両極端しか無いような見方は、現実の姿を見ていない」というお話をしましたが、これもまったく同じです。
分類とは、いってみればこの「対立軸の集合体」みたいなものです。
物事は、実際には滑らかなグラデーションの中にあります。しかしそれを無理矢理デジタルな分類に落とし込んでしまうと、そこには不自然なギザギザしか見えなくなってしまいます。そして、見えなくなってしまったものにも気づかなくなってしまいます。
「分類」ではなく「程度」で物事を見ていくと、また違ったものが見えてきます。
それは、今まで「分類」で見たときに切り捨ててきた、「分類」に当てはまらない部分です。
例えば性格でいえば、その言わば「逆の性格」です。
例えばコミュニケーションが苦手な人は、「コミュニケーションが得意な自分」を、切り捨てています。
「コミュニケーションが得意な自分」を、あたかも「そんな自分は居ない」と思っているのです。
だから、自分の中に「わずかながらも持っているはずの、コミュニケーションする力」に気づいていません。だから、それを使おうともしません。
それを発揮する力を「程度」で捉えていれば、たとえわずかでも持っている力は、発揮しようとすることも出来るのです。
確かにコミュニケーションすることが得意な人と比べれば、それは拙いものかもしれません。
しかしたとえ拙いものであっても、その力を持っているのならば、発揮することは出来るはずです。
自分の性格を「分類」に当てはめてしまって、諦めてしまうことはありません。
その代わりに「程度」で捉えることによって、諦めてしまったものも、「実は持っている」ことに気づくことが出来るのです。