「雑草という草はない」は、明治から昭和にかけて活躍した植物学者、牧野富太郎博士の言葉です。
牧野富太郎博士は、2023年8月現在放送されているNHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルになっているので、この言葉は最近見直されているようです。
確かにそうですね、いくら草と言っても、その草一つ一つには名前がつけられています。そして草は、それぞれしかるべき場所にしかるべき意味を持って生えていて、それぞれのやり方で生きています。
それを十把一絡げに「雑草」と言われてしまっては、草から見たらたまりませんね。
これは、人間にとっても同じ事です。
人は誰でも一人一人名前があって、それぞれしかるべき場所で、そしてしかるべき生き方を持って生きています。
この考えはこのままで、とても素晴らしい考え方です。
しかし何というか、「それでも『雑草』と呼ばれる草はあって、雑草は除草されてしまうじゃないか」という声も聞こえてきそうです。
確かにそうですね、庭などを見ていても花壇に植えられた花は大事に育てられるのに、雑草は除草されてしまいますね。
つまり、「すべての草は、等しく尊重されるべきと言うのは単なる理想論で、現実には保護される草と除草される草に分けられてしまう。つまり、草の世界にも優劣があるのではないか」ということになります。
雑草とは役に立たない草で、棄てられるべきもの、程度の低いものなのだというわけですね。
ただ、そうでしょうか?
雑草は、本当に役に立たない? そんなことは、ありません。
雑草の中には、食べられる草もあります。ドクダミのように、薬になるものもあります。全く役に立たないわけではありません。
ただ、人が何かの意思を持って植えたわけでもないのに、勝手に生えてきてしまった草、それが雑草です。
誰かの意思に従って生えてきたわけではないので、疎んじられているだけなのです。
つまり、花壇の花や畑の野菜のように、誰かの意図の通りに生えてきた草は保護されます。しかし、そうでない草が雑草になります。
言ってみれば、誰かにとって「都合が良い」草ではなくて、「都合が悪い」草が、「雑草」と呼ばれるわけです。
要するに、誰かにとって「都合が良い」か「悪い」かだけの違いです。その間には、優劣はありません。
都合が良いか悪いかは、「その人」によることであって、草そのものには責任はありません。
つまり雑草は、「誰か」のために生えているわけではありません。
花壇の花などに引け目を感じることはなく、堂々とそこに生えています。
人も同じです。
人間は、誰かの意志に従って生まれてきているわけではありません。
そりゃ、「誰か」にとって都合の良い人ならば、「その人」にとって重宝されるかもしれませんが。
しかし、誰かにとって都合が良いか悪いかは、一人一人の人間にとっては、問題にするほどのことではありません。
まして、誰かの役に立っているから優れている、役に立っていないから優れていないわけではありません。
ただ、誰かにとって「都合が良いか、悪いか」の違いがあるだけです。
誰かにとって都合良く生きるとは、誰かに依存すると言うことです。誰かに依存することなく自分のために生きるには、「誰か」の都合を気にすることなく生きる、と言うことです。