前回の記事で、自分を許すことの効用について書きました。
たしかに、今の辛い心の持ち方から抜け出すためにも、またよりよい自分になるためにも、「自分を許す」ことは必要です。
しかし、「自分を許す」と言うことは、実はなかなか出来る物ではありません。
よく、「現実を受け入れましょう」と言いますが、その「現実」を受け容れることが出来ないから、私たちは悩んでしまうと言っても良いと思います。
現実の自分・・・。
例えば、成績が悪い、給料が安い、定職に就くことが出来ない、容姿に自信がない、特にこれと言った才能もない、人とコミュニケーションすることも出来ない・・・。
そうですね、「現実の自分」って、本当にぱっとしませんね。こんな「現実」を認めろと言われても、出来る物ではありませんね。
それで私たちは、色々な「努力」をやったりします。
まずは、「理想の自分」に近づくために、真正面から努力します。
勉強が出来なかったら勉強する、容姿に自信がなかったら、フィットネスジムに通うといったような、正当な努力をします。
しかしこれは、必ずしも成功するわけではありません。
或る人は、現実以上に自分を盛って、自分を良く見せようとします。
また或る人は、ほんのちょっとしたアドバンテージを強調しようとして、他の人にマウントを取ろうとします。
それでも上手く行かないときは、他の人のちょっとした落ち度を指摘して、それを責め立てたりします。
さらに他の人は、むしろ悪いことや人に迷惑をかけることで、自分を目立たせようとします。
さらに特定の人をいじめて、自分が優位に立っていることを確認しようとします。
理想の自分に近づくためには、正当な努力をする以外の道はありません。
それ以外は、すべて「脇道」であって、その先にあるのは、「理想の自分」ではありません。
私たちが躓いてしまう問題は、すべてこの「脇道に逸れた自分」がもたらしている物です。
そこに到達しても、問題は解決できません。
すべては、「現実を認める」事が出来ないことに起因しています。
しかし「それ」がわかっていても、「脇道」に逸れてしまうのでしょうか?
「現実を認める」ことは、簡単ではありません。それは、痛みを伴ってしまうからです。
そして、その「痛み」に、根気よく向き合う必要が出てきてしまうからです。
だから、より手っ取り早く簡単に痛みから逃れるために、「脇道」へ逃れてしまうのです。
心理学では、その手っ取り早く痛みから逃れる行為を、「防衛機制」と言っています。
しかしその「防衛機制」は、さまざまな問題を引き起こします。(その問題については、別の機会にお話しします。)
それでは、その「痛み」されなくなれば、「現実の自分を認める」ことは出来るのでしょうか?
そうですね、その「痛み」とは、言ってみれば「自分で作り出している」ものだったりします。
だから、「自分が持っている物事の捉え方の癖」を変えることで、その「痛み」を軽くすることも出来たりします。
「物事の捉え方の癖」。たとえば、「テストでは、常に100点を取らないといけない」とか、「人には、常に勝たないといけない」とか、「すべてを100%やりきらないといけない」と言った思い込みです。
または、物事をすべて自分に結びつけて考えてしまうといった捉え方だったり、物事の一部が全部を代表していると言ったような考え方だったりします。
そして、「それらが実現できないから、自分はダメだ」と思ってしまう捉え方です。
その捉え方は、一見真実のように見えてしまうので、より「動かしがたいもの」として定着してしまいがちになります。
しかし、その捉え方が「単なる捉え方」だと気づくだけでも、「自分を許す」ことにつながります。「捉え方」という、歪んだ鏡に映っている自分は、現実の自分ではないことに気づいてください。