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完璧を求めているだけなのに、何故生きづらくなってしまうの?
「生きづらくなる完璧主義」、その原因を探ります。

「生きづらくなる完璧主義」、その原因を探ります。

前回の記事では、生きづらさの原因は、「完璧主義」にあるというお話をしました。

でもやはり、こう思う人も多いでしょう。
「それなら、完璧を求めるのは、悪いことなの? 何も、世界を狭くするために完璧を求めているわけではないはずなのに」。
「そもそも、完璧で無いと認められないし、誰から見ても完璧な物を目指すことが、悪いことであるはずではない」。

そうですね、「完璧」な物は、誰が見ても良い物ですね。
でも、この「誰が見ても」という点が、実はくせ者なのです。
「誰が見ても」ということは、「全ての人」という意味になりますね。つまり、「自分以外の他人、全て」です。
ということは、価値判断の基準の中から、「自分」が抜け落ちてしまっています。
この「『自分』が抜け落ちてしまっている状況」が、「生きづらさ」の原因になってしまっているのです。

これから、その「原因」について、考えてみようと思います。

「完璧主義」は、これが原因

まず、最初に認識していただきたいことは、「自分がコントロールできるのは、『自分』だけ」ということです。
当然のことかもしれませんが、私たち自身が出来る事は、「自分」のことだけです。
私たちは、自分が言ったりやったりすることは、自分で制御することが出来ます。「何」を「どう」やるかは、自分の意思次第です。

しかし、他人が言ったりやったりすることは、私たち自身は制御することが出来ません。

もしあなたが、誰かに「あなたが好きです」と言おうと思ったら、そう思うことも言うことも、あなたの思い通りにすることが出来ます。
しかし相手が、あなたに対して、「私もあなたが好きです」と言ってくれるかどうかは、「その人」でないと決めることは出来ません。
それは、相手が考えて行うことであって、あなたはそれを強制することは出来ません。
自分がやることは、自由にすることが出来ます。しかし、相手がやることには、自由がききません。

あなたは、あなたが思ったことを、思った通りに行うことが出来ます。
しかし、相手がそれをどう評価するか?
それは、必ずしもあなたが思ったような結果になるとは限りません。

ちょっと回りくどい言い方になりましたが、これは当たり前に見えて、実は私たちが見失いがちな前提です。
つまり、自己評価とか、「自己肯定感」と言った物につながってきます。

自分で「自分」を判断してはいけないの?

それでは、「完璧主義」とはどういう事か?
私たちは、自分の言動を、他人からの評価によって、その価値を見極めようとします。
例えば、テストの点数とか、会社の成績とか、親なり教師なり上司などからの評価とか。
そういった様々な物で評価されて、またその評価を、言わば「自分の価値」として認識します。
つまり、「客観的」と言われている価値ですね。

そうですね、誰でも自分の姿は「自分」で見ることは出来ません。「自分」の姿を見るためには、鏡のような物が必要になってきます。
言わば、その「鏡」と言える物が、「客観的」な評価だと言えます。
自分で「自分」を見ることが出来ないから、「自分」の評価は、他人に頼らざるを得ない、そんな考え方です。

評価するためには、「完璧」を基準にしなくてはいけない。

それでは、他人を評価する時に、どんな見方をしがちになってしまうのでしょうか?
そこで出てくるのが、「減点主義」です。
例えばテストなどで「満点」を決めておいて、その「満点」に達しているのかいないのか、いくら足りないのか、足りない部分は何なのか、を決める考え方です。
これなら、わかりやすいですね。
評価のための基準点が決まっているから、そことの差を見ていけば良いですから。或る意味「楽」です。

それだけではありません。
何人かの人を評価して、その優劣を付ける場合に、「減点主義」は、とても便利な考え方です。
一つの「基準点」を決めておいて、そこからの差を見ることで、成績の優劣を付けることが出来るようになります。
もしこの「基準点」を設けていなければ、人によって評価の基準がバラバラになってしまいます。そして、「一体何を評価すれば良いか?」という、問題にすらなってしまいます。
評価どころでは、無くなってしまいますね。
つまり、或る意味公平な評価をするためには、「減点主義」で評価をしないといけなくなる、と言うことも出来ます。

この「減点主義」の基準点を、限りなく高めていったものが「完璧主義」になります。
つまり、「満点(100点)」でなければ、そこからの差を指摘され続けることになってしまいます。
「満点」でなければ不可。「満点」でなければ怒られる・・・。こんなことが続けられてしまう内に、人は「完璧主義」に陥ってしまいます。

「完璧主義」から脱しようとしても、何をどうしたら良いの?

繰り返して言いますが、「完璧」を目指すこと自体は、素晴らしいことです。
しかし、いったい「何」のために、「完璧」を目指しているのか、ちょっと考えてみてください。
「何のために」? それが、他人のためだったら、要注意です。

「そんなことを言ったって、私は自分の『完璧』を目指して、自分のために努力しているんだ」と言う方もいると思います。
確かに「完璧」は、とても気持ちが良いものです。
しかしそれは、その理由を突き詰めていくと、結局は他人が決めて基準に従っていたと言うことも、あり得ます。

「完璧」は、誰が見ても「完璧」です。100点は、誰が見ても、満点です。
つまり、自分で合格点を決めなくても、既に誰かが合格点を決めてくれています。自分で考える必要は、ありません。
ということは、自分で自分に「合格」を出すための基準点を、考える必要が無くなります。
詰まるところ、「楽」です。

言ってみれば、自分が「楽」をするために、「完璧主義」に陥っていると言えます。

「楽をする」というと、ちょっと語弊があるかもしれません。
言葉を変えると、「責任を取ることを逃れている」と言うことが出来ます。

自分で「基準点」を決めてしまうと、「何故それを基準点にしたか?」という、根拠を問われることになります。
時には、その根拠を巡って、誰かと議論する必要も出て来るかもしれません。
それは、とても「面倒」なことです。言わば、「責任」が発生することになりますから。
人はその「責任」を回避するために、「完璧主義」になってしまうのだと言えます。

「自分」を取り戻す

以上で私たちが、「完璧主義」に陥ってしまう原因を考えました。
それでは、どうすれば良いのでしょうか?

「完璧主義」とは、結局のところ、「物事の判断を、他人に任せてしまっている」と言うことです。
そして、「判断の基準から、『自分』が抜け落ちてしまっている」ということです。

「完璧主義」を脱するためには、簡単に言うと「『自分』を取り戻す」と言うことです。
つまり、「物事の価値判断を、自分で行う」と言うことです。

他人が決めた基準点は、「その意味」を考えてみてください。
「その意味」に大した理由がないのなら、その基準点に従うことはありません。

そして、あなたが決めた「その基準点」は、必ずしも誰に対しても有効である必要は、ありません。
価値とは相対的な物で、常に基準は揺れ動いています。
或る人、或る時点で有効であっても、常に有効である必要はありません。

自分が決めた基準に、自信を持てば良いです。

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